情報そのものの良し悪しに関わらず、その情報を生かすも殺すも受け取り手のセンス次第なのだ!!
一般的に価値の高い情報とされるものであっても、その情報の受け取り手のレベルによって、その情報の受け取られ方は様々である。
猫に小判、豚に真珠という諺は昔からある。
つまり、価値のわからない者に価値あるものを見せたところで、その価値を認識できないということだ。
認識できないものは存在しないのと一緒。
仮に、その姿形や現象を目の当たりにしていても、である。
それにどのような利用価値があり、使用方法があるかわかっていないと、つまりその価値の引き出し方を知らないと、そのものの価値は発揮されないのである。
楽器がいい例である。
私は現在、ウクレレという楽器演奏を始めたところだが、これとて弾き方や楽しみ方を知っているからこそ価値あるものとして大事にもできる。つまり、ウクレレの持つ、「音を奏でる価値」を引き出す方法を知っているからこそ、それを利用することができ、ひいては価値を見出すことができるのだ。
弾き方も楽しみ方も知らない、そもそも音楽にさほど関心もない人からすると、ウクレレも単なるガラクタに過ぎないのである。
自分が使わなくても、欲しい人に売ればお金になる。だから価値があるじゃないか、と言われる向きもあるかも知れない。
だがその人は、ウクレレの使用価値ではなく、「他人に高く売り飛ばせる」というウクレレの「換金価値」を見出したわけだ。
その場合、本来ウクレレが有していた「金銭的価値」を誰かに売って換金することで、「金銭としての価値」に変換したわけだ。
これも、ウクレレを手にした人が、それを売るという「価値の変換方法」を知っていたからこそ、引き出すことができた価値なのである。売るという方法さえ思いつかなければ、それが不要な人はただただ捨てるだけである。この場合は、そもそもウクレレなど初めから存在しなかったも同然であろう。その人にとっては。
そもそも価値とは何か、という疑問を呈し出すと、深い話にはまり込んでしまうのでここでは深くは触れないが、要するに価値とは、その人が何を最も重要視するかのモノサシだと言っていいだろう。
実際、何に一番価値を見出すかは、おおよその人間社会の規範なるものがあるので基本的にはその指し示す価値が基準となるだろうが、それはあくまでおしなべて平均的な価値基準に過ぎず、全くもって絶対的なものではない。
だから価値基準というモノサシのあり方は三者三様でいいとも思うのだ。
そして、何事もそのものの価値を知り、価値の引き出し方を知っていてこそ、自分にとって価値あるものになるということは、肝に銘じておかなくてはならない。
つまり、そのものに価値があるとかないとかではなくて、自分がその価値を引き出す能力があるかどうか、が全てだということである。
目の前のものが無価値なもの、ジャマなものだというのは、言ってみれば思い込みに過ぎない。
本当は、そのものに価値がないのではなく、自分がその価値の引き出し方を知らないだけかも知れないということだ。
もしかすると、それの思いもよらない利用方法を知っている人がいて、うまく活用できるのかも知れない。
ある意味、何かに値段をつけて売るという行為は、そのもののもつ価値を分かりやすく他人に教えてあげている行為だと言えるだろう。
知らない人からすれば、存在しないのと同じなのだから。
そして世の中には、どこまでいっても必ず新しい発見がある。
自分という人間1匹なんて、どう足掻いてみたところで、所詮は井の中の蛙でしかないのだ。
・・・という、謙虚な気持ちでどんどん新しいことを経験していこう。
全ては、受け取り手の自分次第なのだから。
初稿220428
投稿220509
今日のひとこと
◆◆◆フッター(定型文)◆◆◆
出来事は全て完璧なタイミングで、完璧な形で起きる。人生にとって必ず何かの意味がある。
私は、楽しいことしかしない。楽しいことにみんなを巻き込み、みんなと一緒に人生を楽しむ。
私は全ての人を潜在的顧客として丁重に扱う。いつの日か、私のブルーベリー農園に訪れてくれる大切な顧客になるかも知れないのだから。
◆山本星海SNS
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