190321thu1549
青空に白い雲が流れていく。
大気の流れが感じられる。
地球はいい星だ。
この美しい地球を守らなければならない。
そんなことを、淀江の温泉ラピスパの露天風呂に浸かりながら考える。
考えてみれば、この地球上で地球を一番汚しているのは、我々人間ではないか。
戦争、製造業による環境汚染、ゴミの投棄による海洋汚染、大量生産大量消費に伴う資源の浪費。まあ人間の悪行は枚挙にいとまがない。
人間こそ、地球の癌であり、悪さをする寄生虫である。
そうだ、人間がいなくなればいいのだ。簡単なことだ。
そうすれば、この地球環境は良くなる。
人間を根絶やしにせねばならぬ。
だからといって人間を殺せば逮捕され場合によっては死刑になる。
それでは楽しい人生がエンジョイできない。
それに、1人の人間に殺せる人間の数なんてたかが知れている。
世界で最も人が死んだであろう第二次世界大戦ですら、死んだ人間の数は300万人とか。ひょっとしたらもっと死んでるかも知れんが、それでも1億人も死んではいないだろう。
強力な疫病が蔓延して人類の99.99%が死んだとしても、残りの60万人が生き残れば再び繁栄するだろう。
その残った60万人は死んでいった99.99%の人間たちよりも優れた遺伝子を持っている。
疫病はむしろ種をより強くするシステムだ。
だから人の命を断つという方法は、100%達成されなければ無意味である。
では自分が消えるか。
しかし、自分だけは生きていたい。
死にたくはない。
好き好んで死ぬものか。
(^^)だって怖いもん。
それもまた事実だ。
( 山´_ゝ`)まだ人生楽しいことありそうだし。
確かに、某17歳青年のように巖頭ノ感を木の幹に彫り付けて華厳の滝に身を投じれば、あっさりとこの常苦の娑婆を離れて清らかなお浄土に参れるのはわかっているが、放っておいてもいずれは滅びる身である。
何をせいて逝く必要があろうか。
その日を安んじて待てば良いのである。
それに、自分一人が死んだところで屁のつっぱりにもなりはしない。
大体、まことしやかに囁かれる「使命論」なるものも眉唾物だ。
人間の幸福を増長させるのが使命であって、それを成す者が成功できるというが、それならばなぜ戦争は起きるのか。
戦争を企てて勝利するものは使命を果たしているのか。
原爆を発明した人は使命にのっとっていたのか。
それとも偶然か。
人類を破滅に追いやるような企てが、次々と成功している現実を、使命論はどう説明するのか?
結局のところ人類は嫌が応にも破滅へとまっしぐらに突き進んでいるではないか。
( 山´_ゝ`)破滅こそが人類の進む道なのかも知れぬ。
この一匹の人間の雄に何ができようか。何をしようが、何もしまいが、100歳まで生きようが、1秒後にあの世に行こうが、どうということはない。
何一つとして変わることはないではないか。
虫1匹がこの世にいようがいまいが何も変わらないのと同じことだ。
では、個人としては何もできない、無力な存在なのか。
いや、個人でも何か出来ることはあるはずである。
もっと視点を長く持ってみる。
もしかすると、私は誰かの親になるかも知れない。
親になるということは、人間を増やすという事だ。
となると、地球を守るために人間が消えなければならないという命題に反するのだ。
私が人の親にならなければいいのだ。
考えてみれば不条理ではないか。そして残酷ではないか。
その子らが生まれたいと希望して生まれてくるわけでもなく、何が何やらわからぬうちに、この四苦八苦生老病死愛別離苦怨憎会苦具不得苦五蘊盛苦の渦巻く娑婆に放り出されるのだから。
赤子の泣き声を聞くにつけ、この子はこの世に生まれたことを後悔しているんじゃなかろうかと思われる。誕生が喜ばしいものであれば、泣き喚くのではなくもっと嬉しがれば良いものだ。
(^^)/そりゃあ、赤ちゃんは泣くものだ。
( 山´_ゝ`)叙情的表現というやつさ。
そりゃあ、機嫌がよければ赤子とてそのうち笑う。しかしその子もこの世に生まれたからには四苦八苦をこれから味わい尽くさねばならぬ。
万が一にも仏教を聞いて弥陀の浄土に生まれ変われる身になれればよいものの、それはあくまで当人の意思次第だ。
我が子でさえ、親でさえ、その境地に立たせられるかどうかは全くもって自信がない。
そんな想いは当の釈迦本人が痛切に感じていた筈だが、これだけ仏教が広まったのは釈迦のお力の賜物だ。
さて。
この世に現に存在するAと、この世に存在しないBと、どちらが幸福か?という謎かけがある。
Aは喜びが得られる反面、Bは喜びが得られない。しかしAは苦しみを受ける反面、Bは苦しみを受けることもない。
とすれば、相対的幸福、いや絶対的と言ってもよいが、間違いなくこの世に存在しないBの方がマシなのである。
というわけで、人間単体で見たときも、どうやら生まれてこない方が幸福のようである。
さて。
地球を守るためには人間が消えなければならない。
なかなか受け入れ難い話だが、どうやら確からしいと言える。
しかし、今いる人間は、自分自身を含めて消すことはできない。
私に消すことができる人間は唯一、私が親となってこの世に生まれるであろう人間だけである。
私は、親にならないことによって、私の子となる人間の存在を消すことができる。
それは、その人間がさらに親となり、その子となる人間も、それに続く人間も全て含んだ話である。
私には今いる人間を消すことはできないが、将来生まれてくるであろう人間を存在させないことができる。
それは、私が親とならない選択をすることによって実現できるのだ。
全ては地球のため。やむを得ない決断である。
私は幸いにも、人間として生まれてきた目的を達成することができた。
死して身体の束縛から離れ、阿弥陀仏の浄土に生まれ変わることができるからだ。
それを教える仏教に巡り会うことができた。
この上は、もはやいつ死んでも大安心大満足なのであるが、この人間というやつはおそろしく頑丈に出来ており、100歳まで生きることも珍しくない。
実際、祖父は101歳まで生きた。私もそんなに生きる可能性があるかも知れない。
それとも、安い中国製食品や食品添加物、残留農薬、毎日のように受けている電波の影響で案外屈強な明治大正の人間よりも早死にするかも知れん。
ともかく、そうなると死ぬまで何をして過ごすかという問題がある。
もうちょっと仏教を紐解いてみてもいいかも知れん。これがなかなかに奥深いので、時間がいくらあっても足りないのだ。
簡単に聞き齧った知識だけだと、中道を生き、八正道を実践し、善行を積むのが良いそうだ。
仏教によるとこの世の生命全てに慈しみを持てということだ。
すると、この世の全ての生命を育んでいるのは、他ならぬ地球ではないか。
つまり、地球を守ることが生き方の根幹になければならないのだ。
全ての生命を慈しむためには、人間は消えなければならないという、何とも皮肉めいた結論である。
だがこれも必然的な論理で導かれる結論であるから致し方ない。
そうなると、私は教義に従って独り身でいるしかないという結論に至る。
かわいい女の子と結婚してみたいという欲望は、勿論あるのだがね。それは私が煩悩具足の凡夫だから、どうにも止められない欲求なのだ。そこは弁えなければならぬ。私は賢者にはなれない。
それに、私が親とならないことでどうなるかといえば、ただ山本家の血が絶えるというだけのことだ。しかも、全国的にも数の多い、山本姓のごく末端の一族が滅びるだけで、人類全体とすれば塵一つですらないミクロの出来事なので、インパクトはまるでない。
しかし、インパクトがないからといってゼロというわけでもない。個人でやれることはせいぜいやったらいいのだ。
まあ、別に私如きが結婚しようがしまいが大したことではないのだから、縁があれば適当にやっておいてもいいのだが。
何事にもとらわれることのない、中道の歩みこそが求められるのだ。
( 山´_ゝ`)結局普通やないか!!
ところで神はなぜこのような世界を作られたのか?
自分がもし全知全能の神で、神以外の存在が何もなかったとしたら、どう思うだろうか。
なんか手持ち無沙汰じゃね?
永遠の幸福だけどさ。暇じゃん。
誰しもこう思うのではないか。
それで、作っちゃったのだ。この娑婆の世界を!!
理由は「暇だから」
つまりこの世は巧妙精緻に作り出され、自ら動き回る者共が勝手気ままに色んなドラマを展開する、神が見て楽しむための大劇場ということだ。
勿論神は全知全能だから、どのプレーヤーにでもなれる。ハエでも、木でも、人間でも。
で、ふとある時神が何とは無しに山本裕と八田香代子の長男になって、この人生ゲームを始めてみようと思った。
それが俺だよ。
初稿190322
投稿220702
今日のひとこと

◆◆◆フッター(定型文)◆◆◆
出来事は全て完璧なタイミングで、完璧な形で起きる。人生にとって必ず何かの意味がある。
私は、楽しいことしかしない。楽しいことにみんなを巻き込み、みんなと一緒に人生を楽しむ。
私は全ての人を潜在的顧客として丁重に扱う。いつの日か、私のブルーベリー農園に訪れてくれる大切な顧客になるかも知れないのだから。
◆山本星海SNS
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