要約:夢を実現するために、次に打つべき一手が把握できているか?
本文:【日々更新している、今日のひとことについて掘り下げた解説をする記事を書くパターンの奴や】
今私は停滞している。
何というか、ダラダラしたいのだ。
一昔前の、毎日遮二無二(しゃにむに・がむしゃらに)働いていた日々から一転、退職してからというもの、前の職場との関係もほぼなくなり、毎日アホみたいに仕事に出掛けていく必要のない立場の人となった。
関係が「ほぼ」なくなったというのは、少しはあるということであり、それはごく一部の人とは未だに繋がりがあるということだ。
それは仕事上の付き合いということではなく、スポーツ同好会だったり、地域活性化のための有志の会だったりするわけだ。
まあ、それは本筋とは関係がない。
本質的に私は、職場との労働契約を解除した。
フリーダムな状態なのだ。
そうなれば、時間の使い方は私の思うがままだ。
そもそも退職するために宣言してきた、起業への道を、ひたすらに進んでいけばいい。
だがそれでも、起業というのは不安なのだ。何が不安なのかというと、行動の結果が未知数であるからだ。
これがサラリーマンであれば、善意で行動した結果がたとえ失敗に終わったところで、給料は毎月同じように振り込まれるし、仮に損失を発生させたとしても個人が被ることは普通、ない。それは、自分が勤めている組織のトップが下した経営判断のとおりに動いた結果だからであって、良くも悪くもサラリーマンというのはただの働きアリ、チェスの駒、機械の中の歯車の一つに過ぎないのである。
それは自分の意のままに動くことができないということを意味するのと同時に、その動きは自分で考える必要がないからラクだということ。さらに、それは自分で考えたことではないがゆえに、自分が根本的な責任を負わなくて済むということをも意味するのだ。
それは、立場を変えてみれば明白であろう。
経営判断は社長が決裁し、責任をもつ。社員は、社長になり変わって労働力を提供する。
その社員の労働の結果、思ったような成果が得られなかった場合、本質的にその責任は社長にあるのだ。
無論、細部に至るまで考えを巡らせれば、担当者たる社員の働きが期待よりも少なかった、あるいは期待どおりのクオリティに達しなかった場合は、社員にその責任を問うこともできなくはない。
しかし、それすらも、すなわち無能な社員を雇い、その結果として会社の損失を生み出したと考えると、社員の失敗の責任は最終的には社長が被ることになるのだ。
無能な社員を雇うしかなかった社長に、本来的な責任があるのだ。
それは、優秀な人材を採用できなかった審美眼のなさであるだろうし、必要な給料額を提示できなかったということであろうし、また社員に十分な教育の機会を与えなかったという責任問題であるし、はたまた社員がモチベーション高く仕事をすることのできる環境を与えられなかったという責任である。
そう、ごく簡単にまとめてしまうと、社長に全責任があり、社員に責任はないのだ。
つまり社員は確かに自分の自由にできない、給料が安いし増えていかない、会社の環境が悪いなど、様々な不満があるだろう。
その反面、本質的に社員は、自分の業務上の失敗の責任を取る必要はないのだ。
それは換言すると、会社の経営判断としての失敗の責任まで取らされることはないということだ(その社員が経営判断に主体的に関与していない場合に限り)。
ところが、である。
私はその、経営責任を社長に丸投げできる身分を放擲(ほうてき・投げ捨てること)した。
その結果、私は無職になった。
言うなれば、まだ稼げていない自営業者になったのだ。
これから後、私がなす一挙手一投足の全ての責任は、私自身が負うことになるのだ。
ある意味ここまで考察するまでもなく当たり前なことなのであるが、一介のサラリーマンで、自分の行動の多くの部分の責任を他者に丸投げする生活を20年も続けていると、無意識のレベルで他責思考が惰性化してしまっていたことに、気付くことが難しいまでになってしまっていたということではなかろうか。
要するに、めんどくさいのだ。
これはあたかも、ベーシックインカムを配ると一定数、死ななきゃこのままでいいや、と労働を放棄して遊び暮らす民が出てくるとされているところの、その堕民に自分自身が転落してしまったことを意味するのではないかと思うのだ。
早い話が、ニート生活に慣れてしまったのだ。
働かなくとも、何とかなる。
だから、わざわざ責任問題のつきまとってくる、起業するという高い壁にぶつかっていけないチキンハート野郎に成り下がってしまったのではないか。
では、そんな怠惰な自分を鞭打ち、尻に火をつけて叱咤激励するにはどうすれば良いか?
そう、先程述べた、尻に火をつけることをするしかないのだ。
その火を消さない限り、熱くて熱くて仕方がない。何なら自分の命さえ危ない。
降りかかる火の粉は、何としても払わねばならぬ。
その1、期限を決めること。
その2、頑張ればできそうな程度に、タスクを細分化すること。
その3、期限内にタスクを完了できなかった場合の罰則を定めること。または、必然的に起こりうる悪影響を明確に認識すること。
人間は報酬よりも、損失回避傾向が強いのだそうだ。
つまり、報酬というより罰則として何らかの損失を受ける方が、そのリスクを避けようとしてより切迫感が増すということだ。
縷々述べてきたわけであるが、私が言いたいことは次の一言に集約される。
初稿220927
投稿220927
今日のひとこと
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出来事は全て完璧なタイミングで、完璧な形で起きる。人生にとって必ず何かの意味がある。
私は、楽しいことしかしない。楽しいことにみんなを巻き込み、みんなと一緒に人生を楽しむ。
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