物事を断定的に言う奴はバカだから話半分に聞き流せ

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#0439 意識次第で未来は変わる

マインドセット

要約:あなたが意識したように目の前の現実を変えていく力があなたにはある。

本文:

量子論の話。

量子の状態は不確定状態で重なり合った状態で存在している。

そして、それを人間の意識が観測した時点でどれか一つにパチっと固まる(これは多分にイメージ的な表現であって学術的に正確ではない)。

不確定状態の量子が、人間が意識を向けたことで実体化したのである。つまり、これが現実化である。

それがどうしたねん、といったところだろう。どうせ目にも見えないほど小さい世界での出来事やろ。それがワイらの生活と何が関係あるねん、と。

片や極小微細な世界の量子という最小単位のおよそ不思議な振る舞い、片やワイらが目にしている現実の世界。

複数の状態が同時に重なり合っているとか、意識を向けると実体化するとか、意味わからねえ!!というのが正直なところだろう。

だがしかし!

考えてみれば我々人間も、我々を取り巻くすべての環境も、全ての構成要素は量子そのものだと言えるのではないか。

つまりワイらが見ているマクロな世界と、量子レベルのミクロの世界は全く断絶された異世界なのではないか、別次元と言っても過言ではないほど別の世界での出来事なのではないか、という捉え方をついついしがちなのだが、そうではなくて元を辿ってみれば我々を構成する要素は須く量子そのものなのである。

釈迦はその昔、一切皆空と教えられた。全てのものはみな「空」であるのだと。そして「色即是空、空即是色」とも言われる。色とはすなわち目に見えるものすべて。

色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり。空は色に異らず、色は空に異らず、と言われることを、色を物質に、空を未確定な量子に置き換えてみると実にしっくりくるのだ。

すなわち物質は人間の意識を向けなければ未確定な量子の雲であるし、人間が意識を向ければそれは直ちに物質化して観測可能な状態となるのだ。

さすが仏陀。宇宙最高の悟りを開いたのだ。2,600年の昔からすでにこの世の成り立ちについて知っていたのだ。ようやくそのレベルにまで人間の科学力が追いついてきたということか。

まあまだ、仏教の真髄を理解するには未だ仏の知恵の足元にも及ばない煩悩具足の凡夫であるのが人間なのであるが。

現実世界が量子の海であるという前提に立つと、次のような仮説が立てられる。

要するに、我々自身が、可能性の重ね合わせの状態であるという可能性である。

意識していないときは、実体と思われたモノ、すなわち五感で感じ取れるあらゆる物は可能性としての存在に戻る。変わりうる可能性のある全てのものと重なり合った状態になるのだ。

ここで重要なのは、変わる変わると言っても、変わる可能性が全くないものには変わりようがないというのがまた現実であるということ。

キングヌーの「白日」の歌詞にあるように、「朝目覚めたらどっかの誰かになっていやしないかな、なれやしないよな」なんて、そんなことはあり得ないのである。

昨日まで人間だった俺が、朝起きたら突然スライムに転生していた件、などというのも当然あり得ない。荒唐無稽な作り話なのである。

(^^)/だいたいこの世にスライムなんておらんねん!!

( ´_`)いや、パラレルワールドにはいるかも知れんぞ。

それは、これまで先人が積み上げてきた古典物理学などの自然法則に忠実に従って現実世界が動いている「ように見える」ことは、今後においても「同様に確からしい」からである。

まあ、そんな見方さえも仏の目からすれば「人間の知恵もまだまだだな」と一笑に付されてしまうような幼稚な見方なのかも知れないが。

別に間違ったことを言ったところで仏様に怒られるわけじゃないから自由自在に思考を展開してみようではないか。

もしかすると、夢を見ているという状態は量子の振る舞いと似たようなものなのかも知れん。

意識が向いていないから、夢で見る光景は、ふわふわとした捉えどころのない状態になっているのではないか。

夢の中の世界というのは、この私という人間の意識が働いていないから、この無限の量子の海の中の、可能性のもやの中にあるといったような状態なのかも知れない。

未来というのは、起こりうる可能性として常にこの量子の海の中に存在している。

量子は無限大であるから、あらゆる選択肢とその先の現実を形作る可能性が、同時に重なり合った状態で存在しているのかも知れないのだ。

過去も、現在も、未来も。

過去に起こった、ありとあらゆる事象も、未来に起こりうるありとあらゆる可能性も、全て包含しているのだ。

それでいて、決定論のように人間の運命が初めから定まっているのでもない。あくまで存在するのは「可能性」だけだ。次の瞬間の現実を作り出していくのは、他ならぬ我々自身なのである。

まあ、人間の意識というのはそれこそ何十億もあり、それぞれがそれぞれの意識でもって現実を創造し続けているから、その行く末を予言するなんてことは甚だ困難なことであるのだろうがな。

ここで一つの疑問が浮かぶ。物質を物質たらしめているのが人間の意識であるとすれば、いわゆる人類なるものがこの地球上に誕生する前の原初の地球は一体、誰が意識して創造したものなのか?

人間の歴史なんて、所詮道具を使い始めて1万年、サルから進化して20万年といったところだろう。それ以前の地球は、誰が意識を向けていて創造したというのだ?

残念ながら、そこはわからん。所詮人間は仏ではないからわからんものはわからんのだ。

ただ、そこには人間以前の人間ならざる人間を超越した意識の存在があったと仮定すればひとまず説明できる。

つまり神だ。

まあしかし、ここで神を論じるのは控えておこう。それは本題ではない。

わからんものはわからんと結論するのが、科学的な物事の捉え方なのである。

意識とは何か、意識はどのようにして生まれたのか。意識はどのような働きをするのか。

疑問は尽きないが、仏陀が解決しようとしたのはそうした学問的な物事の成り立ちの説明ではなく、人間がどうすれば幸福になれるかであった。

その目的を果たすのに、存在の説明から入るというのは西洋哲学的には重要なことかも知れないが、我々が知りたいのはあくまで私たちがどのようにして幸福に生きるかという手立てである。

量子の世界はそれこそこの宇宙空間をも超えて無限大に広がっているから、そのような莫大な情報量でもすっぽりと収まってしまう。

すなわち、過去の情報は起きたとおり存在し続けるとして(仏教で言うところの阿頼耶識、都市伝説界隈でいうところのアカシックレコード)、未来は現時点においてもすでに可能性としてすでに存在している(何度も言うようにこれは単なる仮説である)。

イメージ的には、ありとあらゆる分岐をした先の未来の元となる要素、素材がすでに存在するので、あとは人間の意識がそれをどのように選択し実現していくかという、その行動というよりは意識の向け方次第でどうにでも変わっていくものなのである。

そして、その重なり合った状態の量子は、人間の意識が向けられた方向性によってその形が決定する。これはすなわち、新たな未来の可能性が現実化したということだ。

仏教にいうところの、因縁果の道理という話にも通ずる。すなわちここでいう因=原因=(私の)意識(によってなされた言動を含む)であって、これが縁=量子の海の中で作用して果=結果=現実を生み出すのだ。導き出すと言ってもいいだろう。

そういえば阿弥陀仏の救いは今生の生死の苦海に浮かぶ大悲の願船、という例えがあった。

量子の海と表現されるように、現実世界は多分、海のようなものなのだろう。勿論それは、この次元の全ての空間を占める、無限の量子の海である。

弥陀の極楽浄土というのが何なのかはわからないが、今世とは次元の違う、おそらくは高次元の世界に私の魂というか真実の生命たるものが還っていく精神世界なのだろうと想像してみたりしている。

成功者がよくいう、人は変われる、いつからでも!(中田敦彦さん)という言葉の真相は、実はそういうことだったと私の仮説で説明できるのだ。

ということで、アナタも変われます。いつからでも。

初稿221218

投稿221221

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