要約:情報を闇雲に集めるよりまず仮説を立てて、それを検証していく。
本文:
「かも知れない思考」
目の前に起きている出来事が生じた理由は、「◯◯だからかも知れない」と仮定する。
最初は、まだ情報があまりない中で仮定を打ち出すので、そこまでの精度を求めなくていい。むしろ、どうせこの仮定には重大な見落としなどがあって、全くアテにならない、反証をしっかり探して、叩き潰してやろう!くらいの勢いでその仮定が正しいかどうかを検証する。叩き台だけに。
もし仮定が間違っていることが実証されたら、また新たな仮説を立てる。
この過程を繰り返すことで、徐々に問題解決に必要な情報が蓄積され、それに伴って仮説の精度がどんどん高くなっていく。
これが、問題解決に至る最短のプロセスである。
この仮説思考は、自分で考えつく仮説に適用するだけでなく、他者の主張についても適用して、その真偽を判定するのに有効に機能する。
他者がAという主張をしている。その上で、そのAという主張を裏付けるデータ、実験結果、理由をいくつも述べるであろう。
だが、それだけでAという主張を鵜呑みにするのは早い。未だそのAという主張がイマイチ自分としてはピンと来ていないのであれば、それはまだ証明されていない「仮説」であると捉えるべきだ。
その上で、その「仮説」が本当に正しいのかを、他のソース(出典)からも洞察して、総合的にその仮説を検証してみる必要がある。
もしかすると、この方法では本当に確実に信用に足る主張などというものはこの世には存在しないのかも知れない。なぜならば、そもそも情報を受け取る主体のこの人間というもの自体が、極めてよく分からないものであるからだ。
また、その人間が主張を表現する手段である「言語」も、そのあり方は甚だ曖昧なモノであるといえよう。
ともあれ、どこかで見切りをつけるというか、ある程度見切り発車でもしない限り、いつまでも仮説の検証ばかりしていられない。だから、ある程度の信頼性が担保できる材料が揃ったのであれば、思い切ってそれを信じてやってみることも必要なことだ。
それで仮に失敗したとしてもいいのだ。未来を確実に予測することなどできない。ましてや、自分の意思とは程遠いところで展開されていく世界情勢など、わかるはずがないではないか。
言ってみれば、生きていくということは、仮説を立て、それを検証していく作業の連続であるといってもいいだろう。
初稿210419
投稿230104
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