安楽死。これはなかなか取り上げるのをためらう重いテーマである。しかし、安楽死問題を考えざるを得ない中で、あたかも砂に顔を突っ込んで嵐の過ぎ去るのを待つラクダのようでは、いつまで経っても問題は解決しないのも事実だ。
これは、あくまで思考実験である。現実を知らない、ずぶの素人である私がこの問題をどのように考えるか、率直に書いておきたい。議論は必要である。その一石を投じることは、全くの無意味ではないだろう。
はじめに確認しておくが、安楽死制度が法制化されたと仮定して、それを使わずに済むのが一番である。できればそんな制度は使わずに死にたい。安楽死制度は一種のセーフティーネットであり、保険だ。
制度の有無と、それを使うかどうかは全く別の問題だ。言わば安楽死制度は、生命保険のようなものだ。
生命保険とは、ご承知のとおり死亡したら死亡保険金が受取人に渡される制度である。
もちろん、死なないに越したことはない。だが人間、いつ不慮の事故で死ぬかわからない。そうなった時の備えとして、死亡保険に加入しておくのだ。
安楽死も同じこと。今は大丈夫でも、人生いつ自殺した方がむしろ楽、という状況に追い込まれるかわからない。そんなとき、なるべく苦しまず、眠っているうちに一酸化炭素を吸って死ねるような安楽死装置、死体も、あたかも病院で死を看取られた人のごとく迅速かつ丁重に扱われる(処理される)。そのような法制化された制度があればどれほど安心して自殺を選べるだろうか。
もちろん、ハードルは高く設定する必要はある。当然、お金のない人でも利用しやすいよう、公費負担制度も作る。金持ち用に、ランクの高い安楽死システムを提供する民間の会社を国が登録制で許可してもいいだろう。
むしろお金の問題よりも、その決断に至った理由、どうしても安楽死するより他に打つ手がないのか、という点を、納得のいくまでカウンセリングする必要があるだろう。
その上で、いわば自殺することは万人に認められるべき人権の一つとして規定されねばならない。自殺が今の苦しみから解き放たれてラクになるためだ、と信じている人にとって、自殺とは幸福追求行為以外の何物でもないわけだ。憲法第13条にあるように個人の幸福追求権というのは保障される。
一方、安楽死制度がない現在は、自殺はしようと思えばできるが、その方法は、素人が考えつくのは痛くて苦しくて辛いものばかり。やはり安楽死も人体のスペシャリストである医学知識を持った専門家がその執行に関与すべきである。
この問題は、極めてセンシティブであるがゆえに、多くの批判があるだろう。
ただ単に、自分としてはどうか、と思考実験してみる。
いいのではないか。その制度があっても。実際に使うかどうかは別として。
最後の最後のセーフティーネットとして、安楽死制度があったら心強い。
だって今だと、死ぬなら痛そうなやつ、苦しそうなやつしか思い浮かばない。しかも、残された人に迷惑をかけまくる方法しか。
昔から言われている、「畳の上でピンピンコロリ」という理想の死に方も、ある意味においては元気で健康であるうちに、安らかに死にたいという、万人共通の意向を如実に示しているのではないか。
そこは、科学の粋を尽くして、真の意味での安楽死の技術ができたらいい。
いや、何度も言うが、使うかどうかは別問題だ。言うなれば、生命保険のようなものだ。生命保険のご厄介になるということは、それ相応の災難に見舞われるということだから、生命保険に関わらずに死ねるのであればそれに越したことはない。
生命保険掛け金などは、無駄に終わることが期待される支出の筆頭なのではないか。
それに、生命保険に入っていれば、いざというときに頼りになる。安心感が得られる。まあ、だからといって病気や怪我など、災難は御免だが。
それと同じことだ。安楽死だって、それのご厄介になるということは、それ相応な厄介な事実に直面したからこそ、安楽死を選ぶわけだろう。
できれば、安楽死などせずに普通に死を迎えられたらそれに越したことはない。
それに、いざ本気で安楽死を考えるような身の上に、絶対に私がならないという保証はない。そんなとき、安楽死制度は最終的な意味での救世主になるのかも知れない。それがあるから、かえって安心してこの人生を生きていくことができるとも言えるのではないか。
生命保険と同じような理由、すなわち、使わなければそれに越したことはない、究極のセーフティーネットとして、私は安楽死制度自体はあった方がいいと思うのだ。
初稿210723
投稿230105
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