要約:不可思議の、崇高な存在理由があるからこそ、今私はここに生かされている。
本文:
あなたは、生きているそれだけで、価値がある。
こう言われて、素直に受け取ることができるだろうか。
「どうせ俺なんて万年平社員、俺の代わりなんていくらでもいる」などと思っていたら、自分の存在価値を見誤っているのかも知れない。
そもそも会社に、自分の価値を正当に評価する能力があるなどと思ってはいけない。
もちろん、その会社の経営者の資質にもよるだろうが、通常経営者は従業員を「労働力を搾り取れる、便利な道具」としてしか見ていないことが多い。
つまり、労働していることが価値基準なのであり、より給料の高い仕事をしている奴が社会的ステータスが高い、というモノサシで会社員は測られているのだ。
そんな悪癖が一般化してしまっているから、あたかも自分の価値の判断基準は、そこにしかない、働いて他者貢献しないといけない、より高度な労働ができる人間でないと社会的価値が高いとは言えない、などという、凝り固まった価値判断基準が出来上がるわけだ。
一旦、そのクソどうでもいいモノサシを捨て去ってみようではないか。
そのクソのような価値基準のモノサシは、誰が作ったものだ?神が作ったのか?
いや、違う。それは人間が作った価値基準に過ぎない。
ということは、間違っているかも知れないし、働く、という言葉一つ取っても、金銭的報酬と引き換えに労務を提供するという、極めて狭い範囲の定義でしかない。何とも下世話なものだ。実に人間的と言える代物だろう。
そうではなくて、人間の存在価値はもっと根源的なところにあると考えるのだ。
私は、人間の価値は、その存在そのものであると考えている。人間が存在すること自体が、人間の価値を証明する、何よりの証拠だと思うのだ。
そもそも、人間が存在するのは、人間の誰かの働き「だけ」によるものではない。未だ人間には捉えどころのない、巨大な何かしらの存在、言うなればそれは「神」ということになるのであろう、その不可思議の存在によって、生かされているのだ。
この世に存在することができているのだ。
だとするならば、私は今、この世界に生を受けて、今の今まで生きながらえている。これこそが、私という人間がこの世に生きる、存在価値の証明に他ならないのだ。
私の存在価値基準は、私が存在していることそのものだ。
それは、存在しているという、紛れもない事実をもとにしたモノサシであり、人間が勝手に作った基準とは次元が違う。
逆に言えば、もうこの世で存在する価値のない人間ならば、その時点ですでに神から死を与えられているわけだ。
誤解のないように付け加えておくが、死んでいった人間は何も存在価値がないから神に殺された、というのではない。
80歳で死んだ人間は、生きてきた80年間は存在価値があったに違いないのだ。
しかしある日、その人間の場合は80歳のとある日だったのだろう、ついにこの世に生まれた役割を果たし切った。その結果、この世にこれ以上存在する理由がなくなったのだ。だから、神が彼に死を与えたもうたのだ。
少なくとも、生きているうちは誰しも存在理由があるのだ。存在理由がなくなれば、それ以上は生きられない。どう足掻いても無駄なのだ。だから人間の存在理由、存在価値がなくなるのは、死ぬ間際のほんの一瞬だけだ。
死ぬ人間とは、もはやこれ以上この世に存在する価値がなくなったから、この世から消されるというわけだ。
それは、すべての人間がいずれ通る道だ。すべての人間に、この世で果たすべき役割があり、それを終えると、存在価値がなくなるので、死に至るのだと考える。
つまり、この世に生きているということは、すなわち何らかの存在理由があるからこそ生きることができているのだ。
理由もなく存在している人間はいない。同様に、他の動物も、植物も、その他命を持たない(と人間が勝手に分類しているところの)石も、空気も、土も、水も、全ては理由があるから存在している。
その理由が何なのか、人間の知恵ではわからないかも知れない。それを知ることはかなり困難なことなのだろう。何せ、神の考える存在理由なのだから。
人間の狭量な基準などに縛られてはならないのである。所詮人間如きが考えつくような、浅はかな存在理由などであるはずがない。
不可思議の、崇高な存在理由があるからこそ、今私はここに生かされている。
そのことを知るだけでも、十分ではないか。
初稿230124
投稿230124
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